ガンダムは「コミュニケ―ションの理想を描いたファンタジー」だ、という議論
とある友人に勧められるままにガンダムをみた。
実は自分はオリジンをちらっと読みかじっただけ。
逆襲のシャア→ユニコーンガンダムで見給えよということあったので、見た。
ラプラスの箱の正体が明かされるプロセスとか、その正体とか、よくよく練られていて、これまたホァーと思ってしまった。流し見だったけど。
そもそもガンダムの世界観というものですが、
○人が増えすぎて宇宙にまで居住区を進出した。
→宇宙という空気のない世界で言葉を介さないコミュニケーションが必要とされた。
→ニュータイプ(新人類)と呼ばれる、超共感能力によるコミュニケーションをとる進化した人類が現れた。
っていうところが主軸になっていて、
・彼らが自分たちのアイデンティティのために戦争をしたり(ジオンVS連邦)
・重力に魂を縛られたアースノイド(地球人=旧人類)を解放(虐殺)しようとしたり
ガンダムというロボットの話はあくまで副次的なものでしかないのかな、というのが僕の現状の解釈です。(ガンダムヲタクの方がいたらすいません。)
あ、でもロボットの動作ひとつも描写が積まれていて、戦艦と同サイズのダミー風船を打ち出したり、宇宙に散らばる岩盤に隠れてゲリラ戦法をしたり、ビームサーベルの格納場所が背負ってたものからどんどん手に近い実用的なところに改良されていたりと、ロボット映像として見ても十分に血沸くものだということは、僕も男の子ですので理解できます。
閑話休題。
友人は言う。
「結果的に人ってやっぱコミュニケーションっていう超初歩的の人としてのレベルの動作で過ちを犯す。それをどう解消するかっていうテーマ。」
「理想の世界を描きながらも、そううまくはいかないっていうジレンマをぶち込んでくる世界観がある。」
友人は自他認める理想主義者であった。
人間のコミュニケーションには理想がある。表現の限界とは何か。
何か人間の根幹に流れる、誰にでも刺さる究極の表現というものがある。
それを描きえるのはもはや二次元の世界にしかないのではないか、とも言っていた。
逆シャアもユニコーンも結構ぶっ飛んでる世界の話があって、逆シャアは最後アムロとシャアの思念がエネルギー波として観測されたり小惑星を止めたり。死人の思念が繰り返し他人に影響を与えたり、ニュータイプ二人で世界の始まり・虚無の世界にぶっ飛んだりする。
コミュニケーションの理想とは何か。
100%の感情共有と理解ができることである。
他人の声が勝手に流れ込んで来たり、死後なおその感情を共有したり、その形はさまざまであったけれど、劇中でニュータイプといわれる人たちは理屈は置いといて、共感を成し遂げていた。
ただ、理解は別として。
マリーダは死後なお、いろんな人の眼前に現れてそれぞれにメッセージを残し、一致団結を助けた。この描写に関しては正直やりすぎじゃないか感はあって、相手はニュータイプじゃなくて普通の人なのである。且つ、眼前にでてきたマリーダは相手の望むことしか言ってない。(育ての親に反発してごめんね今までありがとうとか、主君に対して私はこれまでです姫君頑張ってくださいみたいな)
そもそも死んでるのだから共有すべき感情はないはずで、眼前に現れたマリーダは個々人が望む彼女の像だったのではないだろうか。
いや、むしろ死後も感情の共有ができるのであれば人間の肉体は必要ない。意識だけの世界でいい。肉体という装置は邪魔だ、意識だけでつながりあえる姿が理想、ということだったのだろうか。
フロンタルは主人公と意識を共有し、世界の果てまで意識を飛ばす。これもまた肉体不要の世界なんじゃなかろうか。
シャアは死んだララァとなおも交信してたけど、よく考えたらそれもだよね。
あのララァはシャアの妄想なのか?
それとも死後のララァの意識だけは生き続けるということなのか?
でもアムロとシャアが同時にララァを見てたから…死後の意識を肯定してるってことか…?マリーダもそういうこと…?
生死は究極のコミュニケーションに影響しないってこと…?
不老不死…?
考える主体が脳でないなら一体意識のララァとマリーダは何者なんだ…??
人の記憶に残ることが、生き続けることだみたいなことをsaw2で言ってたけど、そういう話なの??
究極のコミュニケーションは、誰にとって得なの?
意識だけの存在に逆らうことはできるの?
切り口に囚われすぎてる感はあるけど、?がいっぱいになっています。