お座敷一間

上京してきてX年目の社会人が、少しずつ手の届く自分の一間を広げていきたいブログ

千年女優

キャッチコピーが秀逸。
その愛は狂気にも似ている。

ラストの台詞について考える。
あれだけ恋い焦がれた相手なのに、最後にはどっちでもいいのかもしれない、と己の問題にしてしまう。その狂気。
本質的には自己愛だったのかもしれない。相手は本当は誰でもよかったのかもしれない。

ブレない思いや信念、過度な目的意識は、宗教への狂信や手段を選ばない金儲けのような狂気と常につながっている。基本的に怖い。
身を焦がした愛はいつか老いた自分を見られるのが嫌だというこれまた勝手な欲で会いたくないに変わる。相手なんてどうでもいい。

恋してる私が好きなんだもの。

似ているというより、これは愛ではなく狂気なんでないかな。愛とは何かはわからないけど、少なくとも1人が思えば完結するような単純なものではないんじゃね?と思い聖書をググる

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」(Iコリント13:4~8)

…うーん。妬んでない。自慢もしてない。
いや、でも鍵返すという親切が、自分の顔が老けたから会えないという理由にすり替わってるしな。全然親切じゃないな。寛容でもないな。うーん?やっぱり狂気なんじゃないか?

"米国の精神分析学者カール・ラトナーによれば、狂気とは『社会性の破壊自体であり,コミュニケーションと他者との交流の破滅であり,それは現実の社会に対する信頼の欠如に由来する』と定義している。"http://q.hatena.ne.jp/touch/1120560816

ググったけどこっちのがしっくりくるかなぁ。ソースとしては頼りないけど…言葉の定義的には…
やっぱり狂気なんじゃないか。

いや、まぁどっちかでなければいけないわけではないんですが。

少なくとも、1人で会えないとか老いたとか、悲劇のヒロインぶりながら、最後はそんな私が好きなのよなんて開き直って死ぬなんて、なんとも勝手な話だなぁと思う。
でもきっと彼女は幸福だったんだとも思う。
人間なんて所詮最後は1人で、本質的には孤独なんだと、そういう話なのかな。

自分は千代子とは仲良くなれなそうだなぁ。なんとなく。
と、自分勝手な考察をしてる時点で、これもまた千代子との交流の破綻した狂気なのかもしれないッス。

自分でも何書いてるかわからなくなってきたので一旦塩につけよう。


映像としてみた時の、オーバーラップをどんどん重ねる手法は独特で、劇中劇と語りと思い出が混在しながら、何度も同じ追いかけるシーンがでてくる。

美しさはあった。