YOASOBIの夜に駆ける コレ、すごすぎないですか。
昨今ヨアソビ、ずとまよといったバンドが流行ってるという。
というのをマツコ会議で見た。(まあ地上波で特集されるくらいだから、相当レイトなアダプターなんだとは思う)
マツコが述べていた(マツコって呼び捨てでいいのかな…適切な敬称がわからない…)とおり、どこか懐かしさを感じる。なんだろう。どっから来るんだろコレ。
ベースがゴリゴリしていて聞いてて気持ちがいい。声質はいずれもしっとりとまた、ぴったりと耳につかず離れずいる女性ボーカル。
僕が音楽について語れることなんて多くはないのだけど、歌詞をみてびっくりした。
ティーンズ、これに共感してるの。めっちゃすごいと思う。
もう嫌だって疲れたんだって
がむしゃらに差し伸べた僕の手を振り払う君
もう嫌だって疲れたよなんて
本当は僕も言いたいんだ
舞台は僕と君、夕暮れ時、フェンス越し。
青春というのにはなんとも大人びている。
歌詞の中には「僕」と「君」しかおらず、男女、という書き方をしていない。
きっとポリティカルコレクトネスのバランス感なんてのはとっくにスタンダートなんだろう。
「僕」と「君」は全く同じことを考えていてもおかしくない。
「もう嫌だ」なんて思うとき、相手だってそう思ってるかもしれない。
嫌だと思う加害者と嫌だと思われる被害者、これは常に両面あり、いつだって入れ替わりうる。
コミュニケーションの肝は常にブーメランを放っていることに自覚的になることだ、とようやく理解したみそじのおじさんから見ると、この歌詞はキャッチーなポップさと裏腹にめちゃくちゃ鋭角な本質をえぐっているように見える。
失恋しちゃうかも・・・なんて思う女子高生がこの歌聞いて、
「本当は私も嫌だって疲れたよなんて言いたいんだ…」ってなって救いはあるのか。
変わらない日々に泣いていた僕を
君は優しく終わりへと誘う
沈むように溶けてゆくように
染み付いた霧が晴れる
あるのか?…いや、ないのだこれが。
歌詞では最後、「終わり」が救いとなっている。
これがまたすごい。
青春なんてすいた惚れたの繰り返しが醍醐味でしょ、
みたいな浅いおじさんの恋愛観を喝破されてしまった。
違うのだ。今、この歌に共感するような世代の若人は、
合意形成があればその結果に殉じることが誠意だと気づいている。
世にある「一見正しそうなこと」が「どうやらそうではなかったこと」は、SNSという同時全方位的な意見発信の可視化によって看破されてしまった。
だからこそ、目の前の人との合意形成がすべてだと、この歌は語っているのだと思う。
繋いだ手を離さないでよ
二人今、夜に駆け出していく
関係性がすべてではない。
終わろうが何だろうが。
今、二人で手をつないでること駆けることをお互いが望んでいることが価値なのだと。
テキストコミュニケーションがどんどん暮らしの中心にくるにしたがって、
放った言葉はすぐ自分の手元に戻ってくるようになった。
押した分だけ押し返される、そんなコミュニケーションの力学を感じる。
そんな僕がやっと理解できて来たことは、もう若者の間ではデファクトスタンダードだよっつってガツンと殴りかかられたような、そんな歌詞の濃度。
もしかして未来は明るいのかもしれない。
そこに僕が淘汰されずにいられるかはわからないけど。